<第1話>
written by カヨコさま
すっかり疲れていたのかな。
私はずいぶんと長いこと眠ってしまったみたい
車窓から望める風景のなかに、私の知るものは何一つないもの。
いつもならきっと慌ててしまうんだろうな。
でも今日は、どうだっていい。
このまま行けるところまで行こう。
すこしでも、あの人から遠いところへ・・・
ドアの向こうから、名の知らぬ虫の声が少女を迎えた。むっとした熱気が一瞬にしてひんやりとした冷房の余韻を奪う。あたりを見回してみる。ぼうぼうに伸びた線路脇の雑草。改札の上に掲げられている仰々しい、古めかしい看板。ところどころペンキがはがれていて、文字がかけている。駅員は扇風機の前で、ラジオにじっと耳を傾けて動かない。
一度も見たことの無いような風景にマヤは呆然と立ち尽くした。
− 随分、辺鄙なところ来ちゃったな・・・・
後悔の念が一瞬頭をよぎったが、ふっと視線を上げたその先の、眩いばかりの緑。
綺麗。
その緑の与えてくれた、清らかな山の空気を体内に取り入れる。
うだるような暑さの中、改札のむこうへと少女は飛び出していった。
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夕暮れ、ピンと張り詰めた空気が漂うスタジオの一角で、彼女はようやく、大道具に埋もれるようにして指示を出している黒沼を捕まえた。
「ああ、大都の。どうかしたか。」
滴り落ちる汗を拭いながら熊のような男が振り返る。
当世一とたたえられている演出家とは思えないほどむさくるしい。
「いえ、稽古も順調なようで結構ですが・・・北島を見かけませんけど、何かあったんですか?」
男はああ、そういえば、という風に、アゴに手を当てて、天井を仰いだ。
「報告が遅れたが、あいつは、今休暇中だ。」
思いがけない言葉に、いつも冷静な彼女も目を丸くして驚いた。
舞台まで、あと一週間しかないというのに。
一瞬頭が真っ白になった。
「休暇!?」
ようやく言葉をつなげた彼女に、目の前の男はこともなげにあっさりとうなずいた。
「ああ、くれてやった。」
確かに変わり者なことで有名では在るけれども。
今が辛い時期だってことも分かるけど、何で冷房が掛かっていないのか分からないけど、でも。
スタジオの暑さと、衝撃の事実にくらくらする頭をどうにか整理して、事務的にたずねた。
「この大事なときに、休暇を?」
「あいつがどれだけ根詰めちまうか、アンタ知ってんだろう?本番にぶっ倒れてもらっちゃあ困るからな。」
そうは言われても。
彼女の心を読み取ったかのように、男は笑った。
「大丈夫。舞台に支障はない。むしろ、良くなると思う。」
― 一体何が?
「これ、北島の居所だ。さっき連絡があった。」
彼女は見せられた携帯のディスプレイに書かれた地名を急いでメモした。
遠くのほうで、黒沼を呼ぶ声がした。
「ああ、今行く−−それじゃあな。」
「はい。失礼します。」
煮えきれぬ思いを抱えながら、彼女はスタジオをあとにした。
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ここ、どこ?
隣で自分の肩を抱く男は誰なのだろう・・・。そう思いながら、マヤは呆然とステージを眺めていた。
はがれ掛けた壁紙、粗末なライト。古びたソファにテーブル。
ステージのライトの中に、一人の女が浮かび上がる。
銀色をした短髪、肉の無いからだ。
スパンコールのついたドレスなんて、日本人が着ればけばけばしいとしか思っていなかったけれど、着る人が着ればそうでもないんだな。
そんなことを考えているうち、その女がゆっくりとマイクスタンドに近づいていく。
枯れ枝のような腕を、それに絡めた。
片口をにっと上げた、次の瞬間。
女の唇から滑り出した、その声は、空間を飛び越えて、戦慄となる。
体中を駆け巡る歌声。一陣の風にさらわれたように、どこか遠くへと、連れて行かれる。
アップテンポの曲なのに。
それはくるしいほど切なくて。
思考の一切が停止した。
まどろみながら、マヤはその旋律に体を委ねた。
「かわいいねぇ。」
好色そうな若者は、酔いつぶれた少女の腰を抱いた。
「うん・・・」
さほどの抵抗を見せぬ彼女に、手ごたえを感じた。
−今夜はいける。
「眠いの?ちょっと休む?」
優しい言葉で同意を求める。これでうなづいてくれたら、あとはどうにでもなるものだ。
もう眠ってしまいそうな彼女を揺り動かすと、反射的に声を出す。
「ん・・・」
(へへへ、今日はついてるぜ。)
髪をなでて、抱きかかえ、いつもの寝床に連れ込もうとしたとき。
うしろから妖気が漂ってくる。
悪寒がはしり、冷や汗が背中を伝う。
まさか・・・・
ゆっくりと振り返ると、さきほどの歌手がタバコを片手にこちらをにらんでいた。
「!?」
「おい。隆。」
ドスの聞いた声で名をよばれ、一気に体が動かなくなってしまう。
まるで蛇ににらまれた蛙だ。
いやむしろ、霊媒師に見つかってしまった地縛霊とでも言おうか。
「酔っ払った女を部屋に連れ込むなんざ、お前ってやつぁ男の風上にも置けないね。」
顔に煙を吹き付けられ、鋭い眼光に射抜かれて、動けるものはいまい。
この貫禄、いったいどこから現れるのか・・・。
何かいい弁解が無いものかと途方にくれていると。
返事を促すように、鼻先にタバコの火を突きつけられる。
「なんだよ、マリさん。この子がきつそうだったからさぁ・・・」
弱弱しく、自分でも信憑性の無いいいわけだと思いながら必死に弁護してみたが、その甲斐なくて、余計に眼光を鋭くしてしまった。
ずいっと体をこちらに向けられてしまえば、たとえどこぞの大親分でも声がだせるはずもないだろう。
「きつそうだったから、またお前の寝床に連れ込むのかい?」
怖い・・・・。でも折角の、久々の獲物だ。ここで引き下がるわけには・・・・。
「いや、そのね・・・。」
なかなかしぶとい男である。
好色という分野でなければ見上げた根性であるのだが・・・・。
しかし、その根性など、意にも介さず、目の前のオーラは赤黒くなっていく。
「・・・分かったよ。何にもしねえよ。」
折れた。その途端にうらめしげに傍らに抱いた少女をにらみつける。
「ほら!起きろってば。」
目の前にあったお宝が絵に描いた餅になってしまった。
優しい言葉をかけた男かと思うほどに、ぞんざいに少女を振り動かす。
「う〜〜ん・・」
相変わらず夢の中のようだ。
何度か起こそうと頑張ってみるが、こちらに戻ってくる気配は無い。
「ダメだこりゃ。マリさん、俺は約束どおりこいつを寝床にはつれこまねえ。その代わり、アンタが責任とってくれ。」
女の情の厚さに縋ってみた。こういえば、断れる女ではない。
「ちょっと、私これから帰るつもりなんだけど・・・。」
眉間に皺を寄せながらも、否定の言葉は出てこなかった。
(よし!!)
「じゃ、そういうことで。」しめたとばかりにソファに素早くマヤを横たえて、そそくさと裏口から出て行こうとする。
が。
「ちょいと。」
気圧されるその声に、思わず足を止めてしまった。
(しまった・・・)
「なんだよ・・・」
いやな予感がする。
おそらく背後の女は唇の片端を上げて、不敵な笑顔を浮かべていることだろう・・・。
「引導渡してやるよ。」
低くそう呟く声の後、鈍い音が廊下に響いた。
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一通り仕事の報告を済ませた後、水城は紅天女の稽古の進行状態を告げた。
「北島マヤが本日から休暇を取っているそうです。」
書類をめくる手が一瞬止まり、眉間に皺がよる。
「北島が・・・?」
それを男が知っていないことに少し驚く。
連絡が無いのか。
入っているとばかり思っていたのに。
「舞台には支障がないとのことですが・・・。」
いつもの様に、血相が変わることかと様子を窺っていたが、男はすっと冷静な顔になる。
「・・・そうか。あの鬼才のいうことだ。間違いは無いだろう。」
一体何事だろう。
この顔は、彼女に対するものではない。
数ある仕事に対する、あの顔だ。
ふと黒沼のあの言葉を思いついた。
『むしろ良くなると思う。』
−まさか。
この鋭利な横顔は・・・・
−この方は、あの子への思いを断ち切ろうとなさっている。
「・・・一応、北島マヤの休暇先を控えておきましたので。」
冷静を装い、メモを置いて、水城は次の仕事へとむかった。
残された男はしばらく身動きひとつ取らなかった。
彼女に関するものを、何も見たくは無かった。
『抱いてください。』
甘美な誘いの残響に手にしていた紙を握り締めた。
ブラインドから差し込む光に背を焼かれながら、真澄は握りつぶしたその紙をゆっくりと開くと、そこにはかつて栄えていた温泉町の名が書かれていた。
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とおくで鈍い音と、踏み潰されたヒキガエルの鳴き声が聞こえた。
鼻をつくタバコとお酒の混じった匂いに目を開けると、外光より眩い、眩すぎるスパンコールが目に入った。
「起きたようだね。」
目を瞬いているマヤの鼓膜をハスキーボイスが揺らす。
・・・さっきのお店?この人、だれ。
「何があったのか、知らないけど慣れない酒のむなんてよくないよ。あんたみたいなお嬢さんがさ。−はい、薬。これよく効くんだ。」
促されるまま薬を飲む。錠剤は苦手だ。のどに詰まって苦しい。
そういえば、自分のとなりに強引に座ってきた、男がいない。
さっきのヒキガエル、あの人の声に似ていたな。
「あの人は?」
ぎらぎらとしているその女はあの人、の言葉にどうしようもないやつだよと、笑った。
「あぁ、隆?尻尾巻いて逃げて行ったよ。あいつはね、いつも女とみりゃ見境ないろくでなしさ。アンタもあんなのについてっちゃダメ。」
最後の言葉だけは、語気がきつい。この人はさらりといっているけれど、本当にあぶなかったんだ。どうして私っていつもこうなんだろう。
「はい・・・」
しゅんとなっているマヤにふっと眉を緩めると、また優しく尋ねた。
奥にいる男に催促して、オレンジジュースをマヤに手渡す。
「あんた、この辺の子じゃないね、どっからきたの。」
「あ、ありがとうございます。東京です。」
「東京ね、それにしちゃ、警戒心が無いねぇ。」
ふふ、と、眉を緩めたまま笑った。洒脱なその口調の割りに、柔和な笑みを浮かべる。
そんな女の様子がマヤはなんだかこそばゆい。
その笑顔はどこかおかしい。よく見ると片方の口端だけを上げて笑っている。
――どこかでみたような。
「あっ。」
――さっきの人だ。
体中を駆け巡った衝撃を思い出し、ほぼ反射的にがばっと急に体を起こした。
しかし。
・ ・天井が回ってる・・・・。
なかなかいい音をさせて、ソファの上にぶっ倒れた。
「大丈夫かい。急に起き上がるんじゃないよ。中のバネが顔に当たって痛かったろう?」
ぐらぐらする体をどうにか女の助けをかりて起こす。
お芝居を見た後のような高揚感がわき上がっていた。
「すみません・・・。あの、歌すっごいよかったです。なんだか涙が出ちゃって、止まらなかった。」
「あの歌・・・?・・・ありがとう。」
女の歌声が体中に蘇る。次第にマヤの瞳が、声が熱を帯びてくる。
「力強くって、繊細で。もし間違ってたらすみません。明るい曲なんだけど切なくて、悲しくって・・・・えっと、うまく言えないんですけど・・・」
「・・・そういってくれたのは、あんたが初めてだよ。」
熱っぽい、そんな言葉を言ってもらえるのはこの温泉町にきて初めてだと女は思った。またなぜこんなにも、自分の歌を的確に捉えることができるのかとも。
一つだけ思い当たった。
「本当に好きな人がいるんだね。」
その言葉を聞くと、マヤの瞳は悲しそうに揺れた。
−ああ、いけない。
女は笑ってその瞳を流した。
「私の歌、分かってくれたからそうじゃないかなって。勝手な推測。」
その声を聞いているのか、聞いていないのか、マヤは口を閉ざした。
「・・・。」
気が付かないふりをして、気楽な会話を勤めた。
「宿まで送っていってあげるよ。あの馬鹿、虎視眈々と狙っているだろうからね。」
「宿?あの、電車・・・」
ここは日に数本しか通らない。
まさか、そう思ったが、とりあえず聞いてみた。
「こんな時間じゃ、もうないよ。まさか、とっていないのかい。」
「・・・・。」
やっぱりね。
そんでこのなりから推測するに・・・・。
「まあ、裏寂れたとこだから、どこだって泊めてくれる、とは思うけど。」
一応聞いてみるか。
「お金、持ってる?」
そうたずねながら、様子を窺うとマヤは期待を裏切らず、途方にくれていた。
はあ、とため息をついた。
−なんでまあ、こんな性分なんだろうね私ってヤツは。
「随分と世話の焼けるお嬢さんだこと。これも何かの縁だ。うちに泊まりにおいで。」
その言葉を聴いてマヤは心底安心したようだった。
「あ、ありがとうございます。」
「でも、その前に、ここでちょっと飲んでこうか。いきなり部屋に入るのも、なんか決まり悪いしね。」
−出会った一気寝床に連れ込むなんざ、隆みたいだし。
晩御飯を食べていなさそうなマヤに、何か作ってくれるよう、カウンターの向こうにいる男に声をかけ、マヤの隣に腰掛ける。
「私はマリ。あんたは?」
「北島、マヤです。」
「へえ、マヤちゃん。今夜はよろしくね。」
可愛い名まえだと、マリは思った。テレビをあまり見ないマリはその名を知らなかったし、たとえ知っていたとしても舞台やテレビの彼女とはまったく違うのだから、おそらく気が付かなかろう。
これがマリとマヤ、偶然にも似た因果な出会いであった。
少女と老歌手が出会ったそのころ、経済界の柱を築いた豪傑は光も指さぬ池の表面を眺めていた。
「もうじき、わしの心血を注いだ会社が、揺らぐことの無い名品になる。後は真澄がうまくやっていくだけだ。」
そう誰に告げるとも無しに、男は池に向かって呟いた。
その力強い言葉とは裏腹に、男の背中はひどく切ない。そしてまた言い知れぬ業を感じさせるものであった。
――一体何が不満だというのだ。紅天女も上演することが出来る。長年の願いが叶うのではないか。
闇の中に、年季の入った松が縁取られている。
周りの闇を、吸い込むかのごとく深い暗さがその松を象っている。
松を渡る風の音はまるで泣いているかのようだ。
雲が晴れて、その松が現れた。
それとともに。
暗い池のほとりに佇んでいる人影があることに気がついた。
カーキ色の服に身を包んだ、ぼろぼろのゲートルを巻いた青年がこちらを見ている。
あれは・・・
わしだ。
ふたりは見詰め合った。
その夜は、満月だった。
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