
前編
written
by カヨコさま
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俺とマヤの間には決して超えられぬ何かがあった。
それは溝や壁と形容することも出来ないほど二人を隔てる決して超えられない、何か。
"海と月"
そう、例えるのが一番近い表現かもしれない。
空と海は融和しているように見えようとも水平線が永遠に両者を隔て、空に浮かぶ月は海にどれだけ焦がれても墜ちることは許されない。
俺が招いた彼女の母の死がこの関係を決定付けた。
分かっている、それなのに日毎夜毎に君に焦がれる。
募る慕情をどうにか消すことが出来たと安堵しても君を意識すればすぐに囚われる。
寄せては消え、消えてはまた寄せる、波のように絶えず生まれる。
この思いはいつか、昇華するときが訪れるのだろうか
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車内は不気味なほど静かだった。
不気味というのは彼の主観で、隣に座る彼女は緊張のため・・・
明日から神の前で誓い、文字通り「永遠に」続く幸せにお互い感慨にふけることもあるだろう、とその静謐な車に何の疑問も抱きはしなかった。
13階段を今上っている男と、バージンロードを歩く夢を描く女。
全くかみ合わない思想と表層だけの安寧が車の中には充満している。
息が詰まるほどの欺瞞。
噛みあわないまま結婚するのはこの男の咎によるのか、業によるのか。
不意に、ローズサテンの色を挿した唇が横に引かれ、薄い唇が弓なりの美しい形を象る。
彼女はもう習慣となって、特に不可解な行為でもなく、少し腕を伸ばして人一人ぶん向こうにいる彼の手を握った。
彼はそっと微笑んで、その手を握り返す。
指を揃えて、彼女の手の甲を包み、慰撫する。
彼女は互いの指を注視する。
ちょうど右手に座る彼の、左手の薬指。
シンプルなデザインで、リングの裏側面に自分とおなじサファイアが埋め込まれている。
リングは緩やかな流線を描き、明日にはその流線にあわせて作られた誓いの指輪を、彼女の手で彼に嵌めなければならない。
上手くできるだろうか。落としてしまわないようにしなくては。
花嫁の杞憂に近い心配は減る事は無い。
―明日嵌められる新たなもう一つの指輪はきっと。
・・・・彼女にとって消えはしない、一番の懸念事項を取り去ってくれるだろう。
神が定めた二人が、神と会衆との前において夫婦となる契約の証、らしいから。
結婚「さえすれば」この釈然としない胸に立ち込める、うす曇の、生ぬるいどうしようもない不快感も無くなるに違いない。
楽観的にはなれないものの、幾分か、その事実は彼女の心を和らげた。
髪を撫でるこの指は恒久に自分のものとなるのだと言い聞かせて。
目を向けなければならない何かに気が付かない振りをした。
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幸せそうな未来の妻が寄り添って笑いかけた。
何の感情も浮かばない胸のうちを悟られないようそれに応える。
明日二人は神の前で永遠の愛を誓う。
新郎は妻の延長線上、窓ガラスに流れる景色の中に、一つだけくっきりと形を残す少女を見つけた。
彼だけが象った、少女の姿。
少女というには幼くない。
年齢も、姿かたちも華奢ではあるが、痩せてばかりのあどけなかった頃よりは、体も柔らかく曲線を描くようになった。
しかしいつまでも純粋でひたむきな彼女は少女という形容がぴったりと当てはまる。
彼の中で、永遠に慈しむべき、唯一。
・・・・マヤ。
さっとよぎり、また形も朧な世界が映る。ぼんやりと建物も空も人も溶け込む黄昏。
輪郭を視界が捉えたのはほんの一寸。
その短い時間でも、彼女の顔は目に焼きついて、離れない。
目線を移し、妻の大きなサファイアを見る。
指輪が縛するその指が心臓に続いているのなら、いっそのこと彼女の心臓をも、止めてはくれないか。
半ば本気でそんなことを思いながら、妻から顔を背ける。
囚われているのは自分も同じことだと浅く自嘲した。
そしてまた彼女以外、自分が求めるものは無いのだと認識が深まった。
思えばこのとき、芽をつけるはずの無い種が一筋の光明を捕らえたのかもしれない。
光の届かぬほど奥底に、ずっと昔に蒔かれ彼の手によって地中深くに埋められた種が目覚めてしまったのは彼女の姿。
もし、あの時彼女の姿を見つけなければ、彼は見事に演じおおせただろう。
全ての算段を整えた、速水英介の誤算はおそらくそのたった一瞬の、一方的なマヤとの邂逅だったに違いない。
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店内に足を踏み入れると、威勢のいいいらっしゃいませ、が木霊のように交差してマヤを迎え入れた。
特に何を買いたいわけでもなく、ふらりとコンビニに行きたくなるのは、高校生の頃から変わらない習癖。
特に、この店がお気に入りだった。おにぎりは美味しいし、惣菜も他店と比べればマヤの好みに合う。
ここでしか扱われていない、生活雑貨のブランドも好きだった。
デザインはシンプルで、使いやすい。バウムクーヘンやプチ・シューは値段の割りに美味しくて、甘いもの好きなマヤを満足させる。
店員の黒いユニフォームは最近デザインが変わったもの。はじめは違和感を感じたけれど慣れてしまえば、その服が一番、心安いものとなった気がする。
カタリ、今撮影しているドラマの原作が連載されている少女マンガを手に取る。
リアルな恋愛事情を描いた切ないラブストーリー。
マヤの役は恋愛トラウマを持つ助教授に恋をするちょっと地味な大学生。
回を重ねるごとに綺麗になり、垢抜ける。いわゆるシンデレラストーリー。
出尽くしたネタであるが、どこか夢見ている女性は少なくない。
放送枠はあまり視聴率が取れないと言われているのに今シーズンでは一番人気がある。
漫画を読む習慣が無いので20分くらいかけて読み終えた。
本を戻そうと、屈む。
屈んだその先。鼻先5センチほどの距離。
「速水グループ総裁、ついに結婚」
経済雑誌の、特集記事の一つに上げ連ねてあった赤いゴシック。
ぐっと胸が詰まって一瞬息をするのを忘れた。目の前のガラス、反射した店内には情けない顔をした自分がいる。
同じ土俵に上がることすら出来ずに気が付けば、愛しい人はどこまでも遠くへ行ってしまう。
自分の体たらくと責めるには彼女は自信が無さ過ぎて。
これはこれで良かった、彼は落ち着くところに落ち着いたんだと悟るには慕情の重さは天秤にすら掛けられない。
忙しさにかまけて、そんなもの、目を通しもしなかった。
事実から逃げ、故意にその情報は遮断した。
何気なくチャンネルは変え、新聞に一言でもその話題が載っていようものなら、一面も読まずに箱の中に投げ入れた。
最後の最後に確かめておきたいと無意識にでもあったのか、それとも大体男性雑誌のコーナーで見かける経済金融雑誌が女性向けの雑誌の間に置かれてあったコンビニの雑誌陳列が妙だったからのか。
最後の最後に現実は彼女を捕まえた。
それは彼女の腕を取りすれ違いざま告げた。
本人たちと同様、指折り数えてきたその日。それが明日だと。
―明日二人は結婚する。永遠の愛を誓う。
どうしてその隣にいるのは私じゃないんだろう。
自分を過小評価して自虐すぎるくらいの彼女は祝辞を乗せている新聞雑誌から目を背ける。
もう一度また、逃げようとした。
瞼を伏せる、たったそれだけのこと。
それだけが事実に対する反抗の手段。
コンビニを出れば、月が仄かに光りうす雲の中、朧に霞む。
黙殺しようとした数十分前の真実が月明かりに照らされる。
・・・・コンビニへ行く途中、見咎めた一台の高級車。
あれは、彼とその妻が乗っていたのではないか。走り去る音、良く見えない車内。磨き上げられた車。
車のフレームが街灯を受け反射したとき直感的に思った。
―速水さんと紫織さんがあの車に乗っている。そしてそういう直感は当たる。
芸能界で失敗したときも、舞台を降板させられたときも。
はじめから漠たる不安があった。
テレビ局の真っ直ぐで硬い廊下を歩いていても、嫌がらせの犯人を突き詰めても一寸先に泥濘があることをどこかで察知していた。
だから、事実はどうかわからなくともあの車に乗っていたのがあの二人だったということが彼女の真実だった。
車道と歩道を隔てているのは10センチもない段差。
たったそれだけの、溝。
隔てられた車道、車はどんどん流れていく。
コンビニに入って40分、その間にあの車は、遥か先へと二人の目的地に向かっている。
―私を置いて。
私を置いて、と考えてはたと気が付く。
自動ドアの前でぼんやりしていると、入れ替わりに店内に入ろうとしている学生のカップルに肩がぶつかる。
―この二人と速水さんたち。私にとっては全然違う意味を持つけど・・・向こうから見れば、一緒なのかもしれない。
「私を置いて」?
そんなの、間違いだ。
私は最初から関係ない。
二人の間に、私は関係ない。
白線が隔てているのは、永遠の平行線。
10cmの段差はなくなることはない。
速水さんと私は交わることはない。
同じ位置で同じものを見るなんてありえない。
クラクションが鳴る。
狭い道路を車が3台、マヤの横を通りすぎた。
ぼうっとしすぎてあやうくひかれるところだった・・・
いけない。リセットしなきゃ。
どう願ったって仕方ない。
決まっているものはかえられるはずもないんだから。
いけない、いけない。
私の明日も予定が入っている。
明日は私にも必ず来る。速水さんには速水さんの、私には私の明日がある。
明日はドラマの撮影が入ってた。
朝早く起きなきゃ。7時入り。
結婚式のことは松江さんが電報と花輪を手配してくれるといっていたから気にしなくて良い。
もうとっくに欠席の届けも出した。
そしてまた明日になる。
それは速水さんが結婚しても変わらない。
そうだ、少し気分を変えてみよう。うん、それが良い。
最近服にもあまり拘らなすぎたから、少しはお洒落しよう。
明日は買ったばかりのワンピースを着ていこう。
それと美味しいご飯を食べにつれてってもらって。
そう、楽しく生きる。
大丈夫、今までどおり―
目の合ったサラリーマンがぎくりとした面持ちでマヤから急いで目を背ける。
マヤは気まずさに首をかしげ、俯く。
白いコンビニの袋にぽたりと水滴が落ちた。
どうやら雨ではないらしい。
自分の頬が冷たい。そして口元に入るそれはちょっとしょっぱい。
首まで伝うのは、涙。
幾筋も幾筋も、ぽろぽろと零れていた。
自分でも、気が付かないうちにマヤは泣いていた。
怪我を見つけたら急に痛み出すように、泣いていることに気が付けば涙は止まることをしらない。
―私と速水さん、決して交わらない。
紫の薔薇で繋がっていると思ってた。でも違ったんだね。
私が明日どう過ごしたって・・・
速水さんは結婚する。
結婚する。
神様の前で永遠を誓って。
明日はいつもとおなじ。
大好きな人が奥さんを貰うだけ。
声を潜めて、それでも時折嗚咽の漏れる泣く彼女を誰も見ない。
不審に思い目で追うが、彼女が泣いている理由をはっきりと悟る人は誰もいない。
紫の薔薇という接点があっても結局雇用関係以外速水真澄に触れることはない。
その交点をどれだけ自分自身が、望んだとしても。
共に歩くことのない人生を嘆くでもなくただ、その奇跡が起こることを、マヤは恋焦がれながら、泣いていた。
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◇
◇
「それでは、また明日・・・。」
名残惜しげに呟き彼女と握手する。自分でも辟易しそうな声。
明日など来なければ良い。
彼女の返事を車窓から切り離すようにパワーウィンドウを上げた。
明日は、いよいよ結婚する。
計算どおり、ここまで義父の思い通りにして−−−
あの男の寝首を掻いてやる。実現する日は遠くは無い。
義父に掌握されている己の因果ごと切り払い、ようやくこの手に自由が戻る。
・・・自由
長年思い描いていた自由という言葉に不意に違和感を感じ、右手の掌を注視する。
ポツリ
急に雨が降り出した。ワイパーの音が聞こえ、手の内に走る血液を意識したとき覚醒が訪れた。
ついと雨垂れが、一筋だけ窓を叩く。
今まで表層に浮かぶことの無かった疑問。
『自由になる』
あの男は言っていた。
大都はいずれお前のものだと、幼い頃から。
それならば、今手にしているものは奪ったものではない・・当然の恩恵では無いのか?
速水英介の息子として、受くるべき。
現実は急に彼の肩にのしかかる。
窓の向こう、流れる景色。
―ああ、そうか。
俺は自由になんてなれやしない。
飼い殺しの鳥にしか過ぎないんだ。
"速水"
昔から続く財閥、日本有数のコングロマリット、大都グループの頭首を輩出する一族。
あの男から始まったのではない。
ずっと昔から、それはもう成立していた。
俺も義父もはじめから絡め取られている。
明日の花嫁も、だ。
彼女は生まれながらにして鷹のあの、獲物を決して逃さぬ硬い爪に押さえ込まれている。
寝首を掻く?
馬鹿なことを。
鉄の貞操帯にも似た、首輪をつけられている者の寝首をどうやって掻くと言うんだ、俺は。
その扉を開ける鍵すらこの手には無い。
明日掴むのは、扉の前で闖入者を防ぐ資格、それだけだ。
駒にしか過ぎない。
それまで信じていた自由が訪れた時、この掌には何が残るというのだろう。―
「時田」
黙して語らなかった主人が口を開き、大通りで車を止めるように言った。
扉を開け車から降りようとするとギアの近くに長い指が映る。
その手にはいくつか紙幣が握られていた。
「ここから帰れ。」
顔を見ることはしないが、その声は随分と低い。
長いこと付き合っているとその声がいつもと同じようでどこか、悄然としているのが分かる。
「真澄様・・・?」
「少し寄りたい所がある。」
短く言い切られると、それ以上追求することは赦されない。
明日は婚儀。
たとえ政略結婚でも、なにか思い馳せることもあるのだろう。
「畏まりました・・・」
紙幣を受け取り、車から降りる。
遠くへ走り去る車を運転手は頭を下げ見送った。
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◇
メールボックスには未読メールが三通。
どれも麗から。
"さっさと帰ってきな。ご飯できてるんだけど。"
"何してるの。明日仕事早いんでしょ?"
"メールちょうだい。心配です"
見ればコンビニから出て、1時間も経っていた。
"ごめん、ちょっと考えたいことがあって。"
"なるべく早く帰ってきてね。"
メールのやりとりを終わらせると、マヤはぶらぶら歩き出す。
さっきコンビニで買った肉まんもとっくに冷えている。勿体無いと思ったが、食べる気が起きなかったので、そのまま猫にくれてやった。
姦しい商店街、ファーストフード・・・・何処にも行く気が起こらない。かといって家に帰るつもりも無い。
マヤは、ふと、一つの公園を思い浮かべた。あそこなら誰もいない。
マヤの足は自然とそこへ向かった。
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◇
見覚えのある銀色の車。
まさかと思った。
ベンチに座っていたのは見間違うはずの無い人。
あの雨の日ここへ迎えに来てくれた人。
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◇
公園には先客が居た。
煙草を咥えてベンチに座っている。長躯と、整った顔立ち、長い睫。
それは明日、結婚を控える速水真澄その人だった。
がさり。
除光液の入ったビニール袋が音を立てる。
うろんに顔をあげ、真澄は驚いた。しかし彼は指をぴくりと動かしただけで、マヤがそのことに気付くことは無かったが。
二人の視線が絡む。
緊張が張ったのは一瞬、マヤがくすりと笑う。
「なーにしてるんですか?明日、速水さん結婚式ですよ。花嫁さんほっといて。」
ビニール袋を持ったまま、真澄から一定の距離のある入り口に近いブランコに乗って足をぶらつかせる。
真澄はいつものように軽口で答えることは無かった。
「もう送り届けた・・・。」
怯む。真澄の様子がおかしい。ぞわり、背筋に何かが走った。
振り返れない起点。
それが今。
けれどそれに乗ってはいけない。マヤはまた、茶化す。
「遅くまで起きてると、肌に悪いですよ。明日は大事な日だからお肌のコンディションも整えないといけないのに・・・」
マヤの言葉に、真澄が自嘲的に笑った。マヤは今までそんな表情の真澄を見たことが無い。
貼り付けた笑みも凍りつき自然と口角が下がる。
煙草を指ではじいて踏みつけ、彼はふらりと立ち上がった。
視線の先には白々と光る月。
「明日、か。」
次に見る日の光。浴びれば彼は逃げられない。
彼を飲み込もうと口を開く大きな姿の見えぬ魔物から。
「明日から逃れられれば、な」
小さな呟きはマヤには全て届かない。
逃れられれば。それだけを彼女は聞きとがめた。
「速水さん?」
真澄が何の表情もないまま、ブランコに乗る彼女へと近づく。
ふと。
怯えたように彼女を見つめる。
迷子みたい・・・
そう、彼の目にはたしかに、迷子が誰かに縋るときと同じ不安と期待が入り混じっていた。
その不存在に狼狽し、手に届くことを欲している。
何かに怯えて、何かから逃げようとしている。
あなたは何から逃げようとしているの?
どこに戻りたがっているの?
あなたもいや?
あなたも明日から続く現実が嫌、なの?
マヤが逃れたいという彼の感情を、それだけを正しく理解したその時、風がやみ、あたりに静寂が訪れた。
――凪いだ。
彼と、彼女の間にあった海、奔流で、彼女と彼を分かち、気まぐれに幅を変え二人を呑み、どこまでも随意に運命を繰っていた海が。
凪ぎ、全ての波が彼女の足に落ち着くほどになった。
波が無くなれば不安定な視界が定まる。
クリアな視界には等身大の彼が映る。
彼女自身の鈍さも因果も過責もなにもかも、通り越して速水真澄という人間の頑是無さにマヤは触れた。
未だ彼の心のうちを全て察することは出来ない。
明日が来るのが嫌なのか、それとも唯気まぐれに、落ち込んでいるだけなのか。
彼の事情は分からない。
けれど今の彼の瞳は、コンビニの窓に映った週刊誌を見ていた女と同じ色を宿していた。
チェーンを力なく持つ彼の手。
手と鎖の間の、わずかな隙間に指を差し入れ、彼の手を掴む。
「私、を。」
マヤの髪が一房揺れ、前髪が浚われる。
黒い瞳。
星がやけに瞬いている、夜のような。
何かが起こる前兆のような。
黒い瞳。
・・・キィ・・・
ブランコから身を乗り出して、彼女は彼を抱きしめた。
彼女はその小さな体を思い切り投げ出し、受け止めた腕に衝撃が走る。
紅も引いていないのに赤い唇は、炎を彼の胸に宿した。
「私を連れて、逃げてください。」
ふわり、鼻腔に漂う香。強く胸を揺さぶる言葉。
見上げる視線を真正面から受け止めて。
彼と彼女は交差した。
◇
◇
◇
ザァッ・・・
数分後、再び夜風が吹き、錆びたブランコの鎖が軋んだ音を立てる。
公園には月明かりと触れ合う葉の囁くような音が広がる。
人の気配はそこには無かった。